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一般的な学習アドバイス

正しい学習法は最初が難しい

目次

始めに易しく感じる学習法は要注意

今日では、色々な「〇〇学習法」が様々なところで見かけられます。その多くでは、子供が嫌にならないように、様々な工夫を施されています。最も良く見られるのは、導入段階で子供の脳に多大な負担がかかることを避け、なるべく敷居を低くする工夫です。

しかし、そのような方法には、陥りやすい欠点があります。

「ただ・・・するだけで、驚くほど・・・」は無い

英語学習を例にとってお話ししましょう。

「コミュニケーションのための英語学習」では、言語野の機能が聴覚と結びついていることをお話ししました(下のリンクから記事をお読みいただけます)。そこでは、とくに導入期において、文字による入出力をなるべく控え、音声による入出力を中心とする学習が必要であることを強調いたしました。

しかし、音声学習さえしていれば必ず英語が身に付く、ということではありません。とくに「ただ・・・するだけで、驚くほど・・・」と宣伝されているような、頭を空白にしたオウム返しの練習は、脳にかかる負担が少ない分、言語野をスリープ状態に置いてしまいます。最初のうちは向上感があっても、空虚な会話の真似事に終わります。このような「慣れ親しむ学習」を長く続けると、言語野は仕事をさぼることを覚え、能力を発揮しなくなります。

外国語の学習は、どうしても脳に大きな負担がかかる作業です。これは避けられません。とくに英語は、単位時間当たりに伝達する情報量が、日本語の約3倍と言われています(つまり、同じ内容のニュースを英語で流すと、時間が1/3になります)。スピードに慣れ、これに耐えられる集中力を鍛えなければなりません。 

このような訓練を嫌がらないことが重要です。最初の敷居の高さは覚悟して、これを乗り越えなければ次はありません。

これは語学に限りません。スポーツであれ楽器などの習い事であれ、正しい学び方は最初に難しく感じる場合が殆どです。自己流で楽しみながらやるのに比べて、堅苦しさがあり、「楽しくない」と感じる人々も多いでしょう。

しかし、自己流との違いは、すぐに実感されます。正しい学びは次第に進歩を容易にし、日々の向上感が新たなモーティベーションを生みます。楽しさが感じられるのは、その段階になった時です。そして最終的に、高いレベルへ導いてくれます。

逆に、最初は容易に感じられたが、次第に難しく・・という場合は、間違った学び方になっていると考えた方が良いでしょう。                                                                                                                                                                                                                      

一本指のピアノ練習はNG

楽器の練習などは、大変解りやすい例と思います。幼児にピアノを教える場合、一本指で単旋律だけ弾かせれば、最初は簡単です。子供もすぐに達成感を感じて、喜びます。しかしこれは、多くとも最初の数回で終わりにすべきです。それ以上続けると、10本の指での練習に切り替えさせるには、かなり困難を伴います。

しからば自分は・・・一本指だけを超人的に動かし・・・ などと考える人はいないでしょう。作曲家の想定していないやり方では、曲は演奏できません。同じように、神様が想定していなかったやり方では、言語野は機能しないのです。言語野に限らず、自然の摂理に逆らえば、人間の頭脳は正しく機能しません。

ピアノを初めて習うとき、10本指で弾くことなどとても難しすぎる・・・と恐れる必要はありません。難しくはあるかもしれませんが、最初のハードルを越えれば、辛くはなりません。

逆に、最初に易しければ、「易しい → 単調 → つまらない」となるのが普通です。難しさと面白さは、一般に正比例します。私の観察では、ピアノが好きな人は、初心者向きの易しい曲は好みません。例外なく、自分が出来るぎりぎりの難曲に挑戦したがります。

日本の伝統的教育法

私が子供の頃、柔道を習う子供たちは、最初の1~2年は単調な受け身の練習だけを繰り返しさせられるのが当たり前でした。これは練習中の事故を防ぐ意味でも非常に重要なことで、最初に辛抱を要する正しい学びの典型です。現代の指導法は良く知りませんが、今でも大きくは変わっていないと予想します。

伝統の上に基礎が築かれ、〇〇道と名が付いているものには、権威が与えられています。そのようなものはすべて、修行時代が厳しいことが知られていますので、「正しい学習法は最初が難しい」と申し上げると、これと同様に考える方々も多いかもしれません。

しかし、そのためか、似て非なるものがこれと同列に扱われ、権威を持ってしまうことが、日本の社会ではしばしばあります。伝統的な教育方法に、頭を空白にした英語のオウム返し学習によく似た例が多く見られます。例えば、江戸時代以前の漢文の学習では、「素読」という、条件反射的にどんどん読ませる学習法が行われていました。内容(意味)が解っているかどうかにはお構いなしに、とにかく難しい漢文をどんどん音読させます。僧侶の修行の「お経」も、同じようなやり方をします。これは多くの子供にとって、難しいというより辛い作業であり、しばしば「最初が難しい正しい学習法」と勘違いされてきました。

いわゆる「論語読みの論語知らず」は、これが盛んだった江戸時代に、寺子屋で見られた状況です。当時は多くの塾が、これで官吏登用試験の突破を試みていました。このように、伝統の一部になり、世代を経て受け継がれるようになると、正攻法として認知されてしまいますので厄介です。湯川秀樹先生が、漢学者であった祖父からこの教育を幼少期に受け、大変つらい思いをされたと述懐しておられますが。

漢文の素読の場合には辛い方法になりましたが、頭を空白にして(なるべく思考力を使わずに)反射的に出来るようにする、というやり方は、英語のオウム返し学習のように、むしろ最初を易しくしよう、という発想から生まれているようです。これを徹底し、成功した例として珠算があります。これは「思考」を「操作」に置き換えることで目的を達成するという、日本独特のやり方で、色々なところにその発想が見られます。

珠算は、それほど辛い思いをするものではありませんし、数学とは無関係であることを理解したうえで、趣味として習うのであれば害はありません。ただ一般に、「思考」を「操作」に置き換える学習法は、理系科目では非常に有害であり、かつ多くの学習者・教育者が陥りやすいところなので、注意が必要です。難易度を下げたつもりでも、思考を排除するやり方は学習目的を失わせ、別の(深刻かつ無意味な)辛さを生み出します。

この点については、「子供教育の注意事項」などに関連記事がありますので、お読みください。

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