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回り道をした人々3: T君の話(第2話)

 

第1話から続く

再会の日

月日はさらに流れ、 私の退職の日が近づいてきました。そして遂に、最終講義の日を迎えることになりました。

拍手に送られて講義を終え、正装のまま花束を手に研究室へ戻ると、ドアの前で先に私を待っていた同僚の理論系教授が、30代の後半と思われる男性を紹介しました。

「先生は覚えておられないと思いますが・・・彼はT君と言って、10年ほど前に、私たちの学科を卒業した学生です」

目の前に立っていたのは、見違えるようになった、長身の男性でした。私の記憶にあるT君は、青白く、病み上がりのような印象でしたが、目前の男性は、今は眼鏡をかけ、相変わらず細身でしたが、社会人らしい律義さと、精悍さに満ちていました。これほどの長身とは思っていませんでした。

同僚は続けて、

「それから7年後に、彼は放送大学の大学院に社会人入学して、先生には話していませんでしたが、私が御世話して、修士号をとりました。」

「それで今は、うちの学科ではないのですが、電子の〇〇先生の研究室に、博士課程の社会人学生として在籍しています。研究内容は電子と言うより、むしろ情報系になりますが・・・もうじき博士論文が提出できる見込みで、IT関係の企業に就職が内定しています」

T君が口を開きました。手に菓子折りを持ち、私に頭を下げて

「博士論文が決まったら、先生に御挨拶しようと、ずっと思っていたのですが、今年で先生が退職されることを、今日初めて知りまして・・」

「先生は退職されたら東京に行かれると伺ったので、これが最後の機会かと思って、慌てて・・・ こんなものしか用意できませんでしたが、先生のお好きな御菓子と伺ったので・・・」

彼がこんなに近くにいたとは、思いもよらないことでした。階の異なる他学科であり、また社会人学生なので、すれ違う機会もほとんど無かったのでしょうが・・・たとえすれ違っても、私は分からなかったでしょう。

私が言葉を見い出せずにいると、

「先生のレポートの問題・・・いつも提出が追い付かず、単位をとるのに時間がかかってしまいましたが、先生が示される水準まで出来ていなければ、先へ行ってはいけないということは、自分でも良く解りました」

「それで・・・また時間がかかってしまいましたが、どこまでやらなければいけないかを、いつも考えながら、次を勉強してきました・・・あの授業がなければ、それが分からず、続けられなかったと思います」

と、もう一度、深々と頭を下げました。

彼は今や、顔を赤らめた、あの内気な青年ではありませんでした。博士号をほぼ手中にし、良い就職も内定して、自分のやってきたことに手応えを感じつつ、迷いなく自分の道を歩んでいます。

いや、恐らく私の知る学生時代から、迷いはなかったのでしょう。働きながらの就学は厳しい。私は、正当に彼を評価していなかった自分を恥じました。

 

存在していた接点

彼の最後の言葉に、すべてが語られていました。困難な道を進むためには、「どこまでやって次に行くか」という線を、自分で判断できることが重要です。

それには経験を積み、自分を客観視する謙虚さと、前に進む勇気との間の、バランス感覚を育てなければなりません。多くの人は、最初のうち前者が足りないのです。彼は私のレポート評価を指導と受け止め、その線が見えるまで努力しました。そして勇気を失わず、着実に先に進んでいたのです。

在学中は接点が見えず、私は彼の人生において、何らかの助けになっている、という感覚を持てませんでした。しかし接点は存在していた。彼はそれを大切にしていた。彼の言葉は、退職する私には、最大のはなむけでした。

進学は、彼にとって正しい選択でした。

かつては、彼にとって大学進学は意味があったのかと、古い世代の老婆心から私は案じましたが、時代は大きく変わり、安定した職ではなく、安定して働ける力が重要な時代になって来ました。

そして彼は、生涯働ける力を身につけたのでした。

(完)
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